絵、そしてジュエリー。時々日常なども絡めながら、制作についての背景や好きなものなどについてマイペースで綴っています。
by *あゆみ*
カテゴリ
全体
絵画
クリスタルジュエリー
ヒーリング
私自身の体験から思うこと
クリスタルたちのこと
シータを通じて出会った人たち
お知らせ
感想
好きなこと
家族のこと
友人のこと
オルゴナイトジュエリー
ワークショップ
制作のこと
日常のこと
アンダラクリスタル
身体のこと
映画・音楽
未分類
以前の記事
2017年 07月
2017年 06月
2017年 05月
2017年 04月
2017年 03月
2017年 02月
2017年 01月
2016年 12月
2016年 11月
2016年 10月
2016年 09月
2016年 08月
2016年 07月
2016年 06月
2016年 05月
2016年 04月
2016年 03月
2016年 02月
2016年 01月
2015年 12月
2015年 11月
2015年 10月
2015年 09月
2015年 08月
2015年 07月
2015年 06月
2015年 05月
2015年 04月
2015年 03月
2015年 02月
2015年 01月
2014年 12月
2014年 11月
お気に入りブログ
最新のコメント
メモ帳
最新のトラックバック
ライフログ
検索
タグ
その他のジャンル
ANANDA shop
最新の記事
ロックと絵画
at 2017-07-19 14:40
“集めたくなる”ファン心理
at 2017-07-13 13:20
シエラ産ブルーアンダラの入荷予定
at 2017-07-09 13:32
好きな色で、少しずつ描いていく
at 2017-07-04 13:41
今年半年を終えて
at 2017-07-01 15:06
夏日の京都へ~デヴィッド・ボ..
at 2017-06-20 18:32
オーダーメイドジュエリーのご..
at 2017-06-16 11:53
拗ねていてもいいことなんてない
at 2017-06-09 13:21
7年前に描いた絵のその後
at 2017-05-31 17:18
内向きと外向き
at 2017-05-27 22:52
外部リンク
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧


絵で辿るイエスの物語を読んで

c0347597_11155584.jpg
◆絵画とクリスタルジュエリーのショップへはこちらから→
(愛の広がりプロジェクトの波及絵画、ミラクル ビュー ヒーリング(旧:奇跡の法則)の絵、絵画、マリアライトジュエリー、祈りの花ジュエリーを取り扱っています)

◆ショップの詳しい説明については
こちら→
(上記ショップにて取り扱っている商品についての説明です)

◆オーダーメイドについては
こちらから→
(愛の広がりプロジェクトのオーダー発起人、オーダーメイド絵画とジュエリー、マリアライトジュエリーのオーダーなどの受付)

◆ジュエリーのワークショップについては
こちら→
(“自分のためのマリアライトジュエリーを作ろう!”ワークショップの問い合わせと受付)

◆手仕事のサイトiichiへは
こちらから→
(基本 上記ショップと同じですが若干出品内容が異なり、 作品情報がより見やすく、伝わりやすくなっています。上記ショップの商品の他にプチジュエリーも取り扱っています)

〈お知らせ〉
ミラクル ビュー ヒーリング絵画技法の開発者・講師であり、“愛の広がりプロジェクト”や“マリアライトジュエリー”などの企画・プロデュースをされた西出麻里奈さんのブログが新しくなりました。
ameblo.jp/marinaart/
(※これまでリンクを貼っていた旧ブログは新しいブログの内容が充実した後、閉じられる予定です)





今日は、この間 図書館でランダムに選んで借りてきた本の中からお話したいと思います。


今回借りた中で印象に残ったのは、『怖い絵』シリーズで知られる中野京子さんの『名画と読むイエス・キリストの物語』。

イエス・キリストについてはその数々のエピソードもさることながら、実在したのかどうかという点でも、実のところは確証はないようです。
有名な“受胎告知”に始まって、常識では「あり得ない」とされるエピソード揃いなので、無理もないかもしれません。

こちらの本はあとがきにも書かれているように、聖書解釈を目的に書かれてはいません。
あくまで絵画を鑑賞するためのイエス・キリストの物語として、神の子でありながら人間でもあるという矛盾した存在として生まれ、悩み苦しむキリストの姿が書かれています。
もしも政治や宗教的な背景についての細かな解説や学術的な見解が随所に延々と挟まれているような内容だったら、私も手に取って読む気にはならなかったろうと思います。

こちらの本は、イエス・キリストがどんな人でどんな生涯だったのか、断片的にしか知らなかった私に、私が知りたかった形でのひとつのイエス・キリスト像を見せてくれました。

なので以下は、事実云々の点は置いておき、本の内容にならって印象に残った部分を抜粋しつつ、私が感じたことを書いていきたいと思います。


読み始めてすぐ、冒頭の受胎告知の場面から、グッと心をつかまれました。

古代ユダヤでは男子は13歳、女子は12歳になると一人前の成人とみなされたらしく(!)、ヨセフと婚約していたマリアもおそらく13~15歳だったと想定されるそうです。
当時は、姦淫した女性は石で滅多打ちにされて惨殺されるような時代。そんな時代に未婚のまま妊娠したと人に知られたら、無事では済みません。神の意志とはいえ、その危険を承知の上で受け入れるというのは、並大抵の勇気では出来ない事だったのです。
何より辛いのは、母となるマリアにとって神の子であるイエスは我が子であって我が子ではなく、イエスが現世で犠牲となる定めを背負って生まれてくる命であるということ。そしてマリアも、それを知ってしまっていたということ。我が子が無惨な最期を迎えると分かっていながら、その誕生を望みたいという母親はいません。マリアは若くして、身を切るような辛い覚悟が必要なこれらの運命を受け入れる決断をしたのです。

絵画に好んで描かれた神聖な場面は、ただ「天使が突然お告げに来て驚いた」なんてレベルの話ではなかったのですね。
イエスの母として何故マリアが選ばれたのか深く納得すると同時に、その心境を思うと涙が出ました。

イエスの誕生から、周囲はものものしい空気に覆われます。
イエス誕生を祝いにやって来た東方の三博士より救世主誕生を知り、その存在に王位を脅かされる事を恐れたヘロデ王が、ベツレヘムの2歳以下の男児を全て殺すようにとの命令を発したのです。見境なく行われる嬰児虐殺の様子は凄惨を極めていて、あまりに酷く…。
地獄は人の手によって作り出されるものなのだと、改めて思いました。

これはイエス・キリストの生涯全般を通して感じることでもありますが、人の群集心理や、無抵抗な者に対する理性や正気を失った人間の残酷さは、この世で一番恐ろしいものだと感じます。
生まれたばかりのイエスは、ヨセフの夢のお告げにより家族連れ立っていち早くベツレヘムを離れたおかげで、難を逃れます。

そんな人の世に生まれたイエスが成人して洗礼を受け、修行を終えて布教活動に入り伝えたかったのは、「愛」であったと言われています。神を「怒りと裁きの神」ではなく、「愛の神」として人々に伝えたかったと。

イエスは選抜した12人の弟子たちを伴い、3年ほど伝道活動を行ったようです。
ペテロを筆頭としたこの「十二使徒」のうち、11人までが北部のガリラヤ出身なのに対し、ユダだけが南部のユダヤ地方カリオテ村の出身だったそうです。「イスカリオテのユダ」と呼ばれるその人は、後に銀貨30枚でイエスを売り渡す事になります。

ユダが何故イエスを裏切ったのか、その真意がどこにあったのかは分かりません。

出身地の違いから疎外感を感じていたのか、
金庫番という自身の立場から見ると無駄遣いとも取れるようなマグダラのマリアの行い(イエスのために高価なナルドの香油を一度に使い果たしたこと)を咎めないイエスに対する不満や、複雑な嫉妬心(マリアやペテロやヨハネのように自分も愛されたいという思い)を募らせていたのか、
自分の理想と離れていくイエスの言動に、「果たしてこの人は本物の救世主なのか」という疑問を抱いたからなのか、、
本の中でも、様々に検証されています。
もしかしたらそれらの不満や疑問全て、自身が抱いた感情の全てを払拭するために、裏切りという極限の行為が必要であったのかもしれません。

全ては「そうなるように」向かっていたというようにも取れます。
イエスはエルサレムに行く前から、自らの受難と復活について、弟子たちに繰り返し予言をしていました。自らの運命を知りながらそれを回避しようとはせず、むしろ自らを危険な立場へと追い込んでいます。
エルサレム入り後の神殿で権力者側を相手に暴れ、名指しで攻撃したり。
更なる憎悪を煽るような行動に出て、まるで受難の道へと自身と周囲を導いているかのようにも見えます。

もしも知っていながら逃れられず、悩み、震えながらも自分に科された運命を黙って受け入れるしか、他に道がなかったのだとしたら?そのために動かなければならなかったのだとしたら…。
そんなイエスの葛藤と孤独は、常人には知る由もありません。

最期の晩餐となる席でイエスが裏切者の存在を告げた時、弟子たちから出た最初の言葉は「主(キリスト)よ、我なるか」でした。
「私ではありません」と否定するのではなく、逆に「(裏切るのは)私でしょうか」と問うてきたのです。
イエスは何とも言えず情けなく、悲しい気持ちになったことでしょう。
ユダ一人、「主よ」ではなく、「ラビ(師)よ、我なるか」と問うています。これはイエスを救世主と信じていなかったからであるそうです。そんなユダに対し、イエスは「汝が為すことを速やかに為せ」と答えています。
もう、後戻りは出来ないのです。

その夜、オリーブ山の麓のゲッセマネで一晩中祈るイエスの姿に、私は胸がつまります。
神の子でありながら人間の身でもあるイエスが、これから受けるであろう恐ろしい苦痛に怯えなかったはずはありません。自らに降りかかる受難を前に、不安や恐怖に押し潰されそうな自身の弱さと夜通し戦わなければなりませんでした。
私はこのゲッセマネの園でのイエスの心情を思うと、何とも言えない不安と孤独が伝わってきて、切ない気持ちになります。
そんなイエスとは対照的に眠りこけている弟子たちの姿も、イエスの孤独を一層強く際立たせるかのようです。
誰一人としてイエスと共に祈りを捧げて起きている者はなく、それはまるで弟子たち全員がイエスを見捨てて逃走してしまう事を暗示しているかのようでもありますが、イエスの悲惨な未来を「信じたくない」という思い、現実から逃避したいという緊張感が、弟子たちに特別な眠気を与えていたのかもしれません。

ユダの接吻を合図にイエスが捕らわれ、大祭司カヤパ邸で尋問されていた頃
中庭に潜んでいたところを不意に見つかったペテロが三度もイエスとの関わりを否定してしまい、その場を逃れたところでイエスの言葉を思い出し、泣き崩れる場面があります。
「鶏鳴く前に、汝三度我を否むべし」という言葉通りになってしまったのですから、惨めさ、情けなさでいっぱいだったでしょう。
そんなペテロを責められるでしょうか。その場で捕まれば、どんな目に遭うか。同じ場面に立たされて私はイエスの弟子だと正直に答えられる勇気のある人は、そうそういないと思います。聖人と呼ばれる人たちも、元はやはり弱さも持ち合わせた普通の人間なのです。

当のユダも、死刑が確定し酷い嘲りと暴力を黙って受けているイエスの姿を見ていられなくなり、祭司長らに銀貨を返そうとイエスの無実を訴えますが、取り合ってもらえるはずもなく…。
ユダは神殿の床に銀貨を投げ捨て、絶望のうちに首を吊ってしまいます。

残りの11人の弟子たちも一度はイエスを見捨てて逃走しましたが、イエスの復活後にその奇跡に触れた事で死を恐れなくなり、宣教の旅に出ます。ヨハネ一人を除いて、皆殉教者として壮絶な最期を遂げたといいます。

イエスは弟子たちの弱さも強さも、彼らがいずれ真の信仰に目覚めて殉教することも分かっていたのではないでしょうか。
だからこそ、より一層彼らを愛おしく感じていたのではないでしょうか。弟子たちに向けられた慈愛と悲しみの眼差しに、イエスのそんな思いが託されていたように思えてなりません。


イエスを取り巻く悪意は周囲の人々へ感染していくかのように広がっていき、果ては無関係な者までよってたかって無抵抗のイエスを容赦なく痛めつけ、その様は人間の残酷さ・醜さをこれでもかというほど見せつけます。
そんな中にあって、ローマ総督ピラトはイエスが無実であることを見抜いていました。暴動も起こしかねないほど興奮しきった群集の勢いを止める事はピラトにあってもとうとう出来ませんでしたが、一度割って入り、傷だらけのイエスの姿を見て何とも思わないのかと人々に問いかける場面があります。
『エッケ・ホモ(この人を見よ)』。
それまで私はヒエロニムス・ボスの絵画に見るこの場面を、イエスを晒し者として差し出している場面かと勘違いしてしまっていたのです。
ピラトのこのひと言に要約された思いを、恥ずかしながら私は本書で初めて知りました。

写真上の絵画はヤコボ・ティントレットの『ピラトの前のキリスト』です。
目の前のイエスから顔をそむけ、ピラトはその場にいる人々にはっきり見えるように両手を洗っています。これはイエス磔刑に自分は一切関わりがないという事を示すパフォーマンスなのだそうです。
この場面だけを見るとピラトはただ無責任なだけのようにも見えますが、膨れ上がる群集の殺気を前に、それを鎮める事はもはや不可能だったのでしょう。
けれどもイエスがかけられた十字架に、ピラトは「I・N・R・I(ユダヤの王、ナザレのイエス)」と記しています。大祭司カヤパがユダヤの王と詐称したと書かせたがったのを、ピラトは受け付けなかったそうです。イエスに対するせめてもの哀悼と尊重の意を、その文字に込めたのでしょう。
私の手元にもヴィンテージの十字架が1つあるのですが、そこに刻まれた文字が何を意味しているのか、やっと分かりました。


十字架の上で息絶える前に、イエスが絶叫したとされる言葉があります。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ(我が神、我が神、何ぞ我を見捨て給ひし)」。
神に対する抗議とも取れるこの言葉がイエスから発せられたことは大きな衝撃ですが、私はこの最後の言葉に、自らに与えられた運命の重みに耐えかねたイエスの、悲痛な心の叫びが込められているように感じました。
自らが犠牲となって人々の意識に変革をもたらすために、どんなことがあっても人を赦し、愛さなければならなかったイエスの生き方。それは想像を絶する痛みと忍耐を伴うものでした。
イエス自身もまた、生涯を通して必死な思いで神を信頼し続けようとしていたのではないでしょうか。



人は多かれ少なかれ、自分を特別な存在だと思いたがる傾向があると思います。自分の存在や人生に意味づけが欲しくて、自分の使命とは?と模索してみたり。
使命といっても大なり小なりの差はあり、現代の人が求めるそれとイエスの使命とは比べるべくもありませんが、使命とは元来そんなに軽いものを指すのではないと思います。
何らかの使命を背負って生まれてくること、特別な存在(救世主)として生きることは、「自分は選ばれし者だ」と特別な自分になりきって酔うような、決してそんな生易しいものではないのです。



聖書の物語は、ドラマティックな場面に事欠かない壮大な物語となっています。
画家たちがこぞってイエス・キリストにまつわるエピソードを題材に絵画を描きたがった動機も、そのドラマティックな要素に触発されて、注文主から依頼されて、信仰心によって…など、様々あると思います。
けれどイエスの誕生から復活に至るまでの物語と多くの画家によって描かれたイエスの絵画を併せて見ていると、皆それぞれに自分なりのイエス・キリスト像があるようで、その心理描写まで描こうとした画家たちの熱意が伝わってくるようです。
崇め奉る対象である神としてだけではなく、人間として生きたイエスに魅力を感じ、絵筆を取った画家もいたのではないか。そんな気持ちにさせられました。


大変長くなってしまいました☆
お読みくださり、ありがとうございました。



[PR]
by anandab4 | 2017-04-25 11:30 | 絵画 | Comments(0)
<< ほどほどが良い、と思うこの頃 魔の季節 >>